昔の本棚より アースワークス ライアル・ワトソン
PCを漁っていたら、昔々の読んだ本の感想が残っていました。面白い本だった記憶が。
アースワークス―大地のいとなみ (ちくま文庫)
中学生の頃、父の本棚に入っていて、なんとなく手に取った。スピリチュアルっぽくて怪しさムンムンな一方で、科学的な考察もあるようで、中学生ながらに、へえー怪しいけどこの本の通りだったら面白いなあ、と思った記憶があります。著者のライアル・ワトソンの作り話も混じっているので注意。Amazonで中古で激安で購入可能、改めて買おうかしら。
以下、2004年頃?残っていた記録。
偶然 (英訳: bechance )。 奇跡 (英訳: miracle )。国語辞典には、何の因果関係もなく、予測していないことが起こること。思いがけないこと。また、そのさま。 常識では理解できないような出来事。と、ある。偶然について面白い事が書かれている本があった。
アメリカのゼネラルエレクトリック社に勤めるある、エンジニアがある日会社の資料室で対数表の本をかり出して事務所に帰ろうとしたとき、たまたま本の縁の汚れが目にとまったという。見たところ、何らかの奇妙な理由で会社の仲間は「1」で始まる数字を使って計算する事が最も多いようであった。理論的に言えば、与えられたどんな計算であろうと、1~9までの数字どれも使われる可能性は等しいはずだ。だが、実際はそうではない。
乱数の最初の桁は均等に分布してはいない。試しに少し大きめの都市の電話番号簿を眺めてみると、最初の3桁は地域によって区別される部分であるが、その後の4桁あ完全に任意で選ばれているはずである。しかし、実際は1~4の数字の方が5~9の数字より多く登場する。この事に関して、電話会社は無実である。
————————————————————
今、イチゴ10個を入れた丸い大きなケーキを作るとする。小麦粉と卵を混ぜたりなんかして・・・ここでイチゴを入れる。そして焼く。できました。イチゴ10個入りのケーキだ。これを10等分にする。10個に分割されたケーキには理論上1個のケーキが入っているはずである。しかし実際は?なんにも入っていないケーキとイチゴがたくさん入ったケーキがあるのだ。イチゴが偏って入っているのである。この事はかなり頻繁に起こるはずだ。理論上はケーキの一切れずつにイチゴが一つずつが入っていなければならない。でも、そうならない。おそらく、10等分されたケーキにイチゴが1個づつ入った時の確率は相当低いであろう。「混ぜ方に問題がある!」どんなに混ぜ方を変えても、この事は変わらない。
自然な状況では、ものごとは「束」になって起こる傾向がある。ランダムとされる出来事がどこで束になって生じるかは予想できないものの、それが起こる事自体は不思議ではない。自然界に完全なランダムなど存在しないといっていいくらいなのだ。局所的に見ればそうでない事も多々あるが、無秩序な事柄が数多く起こるとそれは予想できうる事になる。/ブリッジというトランプのゲームがある。そのゲームで、一人の人間に十三枚とも同じ組み札のカードが配られる可能性は「6350億分の1」である。数学的に見れば、途方もないくらいに起こりえない事である。「偶然だ!」と言ってもうなずける。ただ、実際こういう事が起こったという話しはよくあるらしい。もちろん一回起こっても驚くべき事だが、もし、同じ夜に同じゲームでこんな事が二度起きたとすれば、少し事情が違ってくる。しかし、数学的に見れば決して起こらないという事ではない。
————————————————————
偶然というものはピエール・ラプラスの「確率論」により飼い慣らされたに見えた。しかし、それよりも以前から偶然に気まぐれがある事は知られている。偶然の気まぐれぶりについて我々が理解するようになったのは最近の事であるが、賭博、博打による影響が大きい。偶然を利用し、運命を決める儀式、それ自体はもっとはるか昔までさかのぼる事ができる。そこで重要なのが、「変幻自在であり、ランダムな結果を導くもの」である。立方体であるサイコロはそういう意味において最も単純で満足するものである。そのサイコロが完璧な立方体であり、振り方も全く公平であったとしたら、その六面のうちどれもが等しく上を向くはずである。しかし、一般にサイコロを振った後の結果は通常は制御できないはずなのに、どこか完全にランダムでないところがあるもの、昔から知られていた。
英語のチャンス「 chance :偶然、運」の古語「 cheance 」はラテン語の「落下」を意味する「 cadentia 」から来ているが、この cadentia には他に「リズム」の意味合いが含まれており、やはり「リズム」を意味する英語の「 cadence 」がこれから派生している。このことは、サイコロが放り上げられたり落下したりする過程に、何らかのパターンあるいはビート(拍)のようなものがあると考えられていた事を示唆する。
Lyall Watson 著 内田美恵訳 「Earthworks」 ちくま文庫 (ちょっと誤記あるかも)
面白い。「ポアソン分布曲線」を思い出す。ある事柄が生じる確率分布があったとして、それはポアソン分布曲線という形をとるというもの。どんな事柄の可能性でも、ポアソン分布に従うという。これは、「確率のパラドックス」だとか「確率の逆説」だとか言われるそうで。なぜ逆説・矛盾しているかというと、そもそもこのポアソン分布自体は確率論であって、その基本は、「 一般に、起こりえる場合が何通りかあり、どの2つも同時に起こることがなく、また、どの場合に起こることも同程度に期待できるものとする 」である。つまり、沢山の確率がポアソン分布に従うというのは、確率論に矛盾しているわけである。どの事柄も同程度に期待できるとすれば、ポアソン分布に従うはずがないからである。ポアソン分布曲線に従うのは奇跡とも言えるのかしら、という風なハナシ。
この世界も偶然・奇跡の上に成り立つものらしい。
我々の住んでいる地球の環境が保たれていることこそ、宇宙空間では本当に奇跡に近い。太陽の存在もそうである。さらに、地球だけでなく、宇宙的にも不思議な偶然が重なっているという。典型的な銀河系の中に存在する恒星の数は、宇宙における銀河系の数と何故かほぼ同数であるというし、宇宙の年齢とその中の粒子の数との間には驚くほどの類似性がある。他の多くの基礎的なパラメータと同じく、このどちらも「10の40乗」という巨大で神秘的な数に近い値である。それを知ったイギリスのノーベル賞物理学者ポール・ディラック( Paul Adrien Maurice Dirac )は、「 何か奇妙なことが起こっているらしい 」と結論するに至っている。
Lyall Watson 著 内田美恵訳 「Earthworks」 ちくま文庫 (ちょっと誤記あるかも)
ディラックと天文学者のアーサー・エディトン
「 これらの数と、意識を持つ生き物としての、我々の存在とには何か関連がある。 」
(恐らく、ディラックの大数仮説を言っている)
感想として、似非科学的な部分もあり、話半分で読むのがちょうどよいです。一番、うんうんと納得した点は、上記引用中:イチゴケーキの話⇒確かに、いかなる事象もクラスター(束)になる傾向があるというところ。嫌なこととか、悪いことって重なる気がするからね。逆に、良いことも重なるってことで。